旧越家住宅と旧小田切家住宅

2019年7月9日、須坂市にある旧越家住宅と旧小田切家住宅を訪ねました。
明治から昭和にかけて、岡谷市と同じように製糸業で栄えた須坂市の建物を見ておきたかったのです。
旧越家住宅は、北信の製糸王と呼ばれた越寿三郎が明治45年頃、次男泰蔵の結婚にあたり購入したものだそうです。建物は明治中期頃の建築で、その後増改築があり平成15年国の「登録有形文化財」になったそうです。
ガイドさんに導かれて中を見ました。寿三郎の関与した事業の沿革が展示されていました。大正9年に「米国絹業協会視察団」の一行を歓迎した3室続きの座敷もありました。親交があったという渋沢栄一の落款のある掛け軸もありました。

旧小田切家は歩いてすぐの所にあります。こちらは、江戸時代から藩の御用達をするなどした豪商の家です。明治3年の須坂騒動で打ち壊しにあい、現在の建物群の多くは明治前期から中期にかけて小田切辰之助が再興/改築したものだそうです。豪商の家らしく重厚感があります。平成25年「須坂市指定有形文化財」に指定されました。平成30年には「長野県宝」にも指定されています。
文化財の活用方法の一つとして、土蔵が作品の展示会に使われていました。土蔵の前の青い陶板を敷き詰めた廊下などはさすがに豪商の家らしく思いました。
帰りがけにここで求めた「旧小田切家住宅修理工事報告書」の製糸関係年表を見ていて気づいた事です。いつも見慣れている岡谷の製糸関係年表と数年の前後があるにせよ「ほぼ同じ事柄が記されている」ということです。例えば、生糸の品質や出荷量を安定させるための製糸結社・東行社・が明治8年に日本で初めて出来ています。同じ目的の・開明社・が岡谷では4年後の明治12年に出来ています。その他も同様に、銀行が出来、電話が通じ、電気も作られました。製糸家の運動で鉄道の駅が出来ました。須坂の「俊明社病院」岡谷の「平野製糸共同病院」も同じ頃に出来ています。
製糸業発展のために学校も出来ました。須坂の「須坂商業学校」岡谷の「平野農蚕学校」です。どちらも現在は県立高校です。
こうしてどちらの町も、明治から大正、昭和初期にかけて製糸業を軸に発展しました。

そこで視点をもっとマクロにしてみると、明治政府の富国強兵・殖産興業政策の大きな流れの中にあった事がわかります。
交通、通信、金融制度を近代化させ、鉱山、造船、紡績、製糸業等々に新しい技術を導入するために、「大規模官営工場」が作られました。
八幡製鉄所、造幣局、富岡製糸場、横須賀造船所、深川セメント製造所、品川硝子製造所、生野鉱山等です。これらに新しい技術を導入して日本の近代化を推し進めたのです。

旧林家住宅の主、林国蔵もまた、製糸業のみならず、鉱山・炭鉱の経営、運送業を起こし、郵便局の設置、電話の導入に尽力し、銃砲火薬店も経営するなどして、殖産興業を担った実業家の一人でした。       K・M記