工女さんのお墓

2021年、明けましておめでとうございます。
旧林家住宅説明員のK・Mです。今年もよろしくお願いいたします。

2018年12月4日、工女さんのお墓参りをしました。
ある資料から下諏訪町萩倉に工女さんのお墓がある事がわかったので早速行ってみたという訳です。
萩倉の所沢墓地の片隅にありました。資料にしっかり記されているのですぐ探す事が出来ました。
3人の工女さんのお墓に手を合わせました。
資料はしっかり調査されていて、出身地、没年、戒名、俗名、が分かっています。私の目にも戒名が彫られていることはわかり、下の位号の部分を読み取る事が出来ました。
左から、「禅女」「善女」「信女」と読めます。「禅女」と言えば未成年(18歳未満)に付けられるもの・・。
資料によると出身地と没年は、「美濃国、明治29年」「飛騨国、明治33年」「飛騨国、明治40年」です。
何があったのだろう?なぜここに眠っているのだろう?
1911年(明治44年)工場法が制定され、12歳未満の就労が禁止されるまで、12歳未満も含め14~5歳から18歳未満の工女さんが多くいたのです。当時の衛生環境からして、おそらく病死なのでしょう。実家には当然連絡をしたのでしょうが、何らかの事情で引き取りこれなかったのでしょう。
経営者一族のお墓の傍らに墓石をたて戒名を授けてもらい手厚く葬られたのでしょう。
少し離れた場所に地域の文化財を守るグループが建てた案内版がありました。それによると、近くに「萩倉製糸合名会社」という製糸会社があった事がわかります。 関係する子孫の方が今でも供養を続けていらっしゃるそうです。
6月の研修旅行でお参りした工女さんのお墓にも、働いていた工場「純水館」の屋号が彫られていて、その工場を見下ろす高台にありました。(2020年11月15日のブログを見て頂けると幸いです)
どちらも経営者の工女さんに対する思いがこもっているようでした。

で、当時から今に至る衛生環境についてです。
コレラ、天然痘、腸チフス、発疹チフス、ジフテリア、赤痢、を伝染病に指定し、太政官布告による「予防規則」が出たのが、明治13年。(治療法はまだ確立していない。)
明治12年から13年にコレラが大流行。(火葬が奨励された。)
明治15年と19年にも大流行。
腸チフスは明治から大正以後も昭和まで毎年発生。(上水道建設が急がれることに・・)
ペニシリンの実用化が1942年(昭和17年)
結核の治療薬ストレプトマイシンがアメリカで最初に臨床使用されたのが1944年(昭和19年、第2次世界大戦の末期)
その薬が日本で量産開始されるのが、1951年(昭和26年)

当時も2021年の今も、人類は感染症に打ち勝ってはいないのですね・・。    K・M記