開明社記念碑

2017年6月9日、理事のY・Mさんと開明社記念碑を訪ねました。明治政府の「富国強兵」「殖産興業」の国策の下、明治5年あの官営富岡製糸場が出来、各地に製糸業が興り始めました。外貨獲得のため、出来た生糸のほとんどを輸出していました。・・横浜の港から船に載せて・・。初期の頃の製糸工場は規模が小さく、出荷量も少なく品質もバラバラ・・。仲買人を通せば中間マージンもかかりました。そこで組合という形の結社が出来たのです。皇運社、確栄社、協力社、信栄社、進工社等・・・。加盟工場の生糸を選別して品質をそろえ出荷量も大きくした事で、横浜の問屋とも特別契約を結ぶことが出来る様になりました。そんな中で明治12年、片倉兼太郎、林倉太郎(国蔵の父)、尾沢金左衛門の3人が発起人となり開明社が出来ました。開明社では共同出荷のみならず、揚返(あげかえし・・小枠に巻き取った糸を大枠に巻き返す事)を共同で行い、繭の共同購入も行いました。また、品質向上の為、各工場を指導したり機械の改良にも努めました。やがて各製糸工場の規模が大きくなり、独自にそれが出来るようになるとその使命を終わり、明治40年開明社は解散しました。今でこそ企業では当たり前の事となっている、「顧客満足度を上げる・・」という発想が出来たという事が、その後の岡谷の製糸業発展の理由の一つになったのではないか・・?と思うのだがどうだろう・・。 開明社記念碑は岡谷駅西側の鉄道脇にある小さな公園内に御射宮司社と並んでひっそりと建っていました。  K・M記