西条炭2
2023年3月29日、4人で筑北村周辺にある西条炭に関わる遺構を訪ねました。
西条炭について調べ初めてから2年半程経ち私なりにまとめられるレベルになった・・と思われるところで、「近代化産業遺産を伝える会」と「シルク文化協会」のメンバー達とミニ研修会を実施したというわけです。
初めは博物館に行き、この辺りで石炭が採れたことを知りました。その後詳しい事は図書館に行けばわかるだろう・・と訪ねた筑北村図書館で岡谷市出身の齋藤保人先生の「西条炭採掘史攷」という本に出合いました。それには西条炭について詳しく書かれていました。やがてその本が岡谷蚕糸博物館にもある事が分り、館長の好意で長期間借りる事が出来ました。それからはその本を片手に筑北村周辺を歩き回りました。調査の過程で知人を通じて村の有識者Yさんと知り合う事が出来ました。筑北村図書館長にして博物館管理者、また宮司さんの顔を持つ・・というまたとない方です。調査がスピードアップしました。そうしていくつかの事が分ってきました。
西条炭採掘のきっかけは紀州の人・金森信一郎が明治12年善光寺参りの帰路、旧四賀村(松本市四賀)の会田宿岩井堂の裏で炭層を発見したことによります。(採掘は明治16年から)
現在の筑北村周辺で採れた石炭が西条に集結して出荷されたので「西条炭」と呼ばれた事。
炭種は褐炭で炭層も薄く大規模な採掘には向かない事。最盛期には小規模だが40を越える炭坑があった事。大勢の炭坑屋が集まり村が賑わった事。明治22年登記作業の利便化の為、「松本区裁判所西条出張所」が開設された事。林国蔵も明治26年には採掘を手がけた事。明治33年には西条駅が開業された事。出荷先は当時軍隊のあった松本や製糸業の盛んだった諏訪・岡谷地方が多かった事。等です。
そこで、西条炭採掘の動向と岡谷の製糸業の置かれた状況を比較してみました。金森信一郎により西条炭の鉱脈が発見された明治12年、岡谷では開明社が設立されています。
西条炭の採掘は製糸業の発展と共に栄え、明治末から大正位が最盛期です。昭和のエネルギー革命が進んだ昭和37年にすべての炭坑が閉山しています。
一方、製糸業が盛んになった明治20年代には、岡谷周辺の山々から木々がなくなり燃料が窮乏する状態でした。
石炭が燃料になることが分かり、林国蔵等は明治26年西条炭の採掘申請をしています。自ら採掘に乗り出し供給しようとしたのでしょう。
明治27年には諏訪薪炭株式会社を設立し、離れた地域の国有林を払い下げてもらう等して燃料の薪炭を供給しました。
塩尻―岡谷間の鉄道が未開通だった明治37年には、西条駅から塩尻駅まで運ばれた石炭を一刻も早く岡谷に届ける為、諏訪索道株式会社を設立し運搬の便を図っています。
こうして燃料の転換が進み製糸業を続ける事が出来たのです。西条炭は岡谷の製糸業の窮状を救ったのです。また、林国蔵は製糸家から発展して岡谷の製糸業の置かれた状態を俯瞰して見ることの出来る実業家だったと言えるのでしょう。
こうして私なりに西条炭がある程度わかってきたところで、「西条炭採掘史攷」を岡谷蚕糸博物館に返却に行ったのですが、館長から「研修会を行ったらどうか?」というご提案があり(ご命令か?)冒頭のミニ研修会になったという訳です。その折には調査の過程で大変お世話になったYさんが一日時間を空けて同行して下さいました。しかも日程の最後にはご自宅に招いて頂き、奥様のたてた美味しいコーヒーまでご馳走になりました。
私の2年半にわたる調査行の最高のフィナーレになりました。Yさんを始め調査の過程でお世話になった多くの方々には心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。 K・M記