林国蔵と旧林家住宅と発掘girls
2020年7月26日、魅力的な7人の女性達が旧林家住宅へ来てくれました。
縄文の発掘現場で一緒に作業をしている仲間の女性達で、人呼んで発掘girlsの皆さんです。私が旧林家住宅の説明員をしていると分かり「どれどれ、一度聞いてやろう!」という訳です。
いつもの作業時とは違うあでやかな姿で来訪されたので、ちょっとひるみましたが気を取り直して「じゃあ、いつものように説明します」と始めたところ、皆さんメモ帳を取りだしてメモを始めた。「え!メモするんですかぁ?」と声に出してしまったが、さすがは発掘girlsです。歴史的なことが好きなのでしょう。「一言も聞き洩らしたくない!」との事。汗をかきながら1時間以上かけてご案内しました。
そこで今回は魅力的な発掘girlsの皆さんをご紹介!・・したいところですが、それはまたの機会にして、これまで紹介してこなかった、重要文化財・旧林家住宅とそれを建てた林国蔵についてダイジェストでご紹介します。
林国蔵は1846年に生まれ、1916年に没した。70年の生涯で多くの事を成した実業家です。父、倉太郎から継承したイチヤマカ林製糸所を経営しつつ、岡谷の製糸業の改良/発展に尽力しました。中でも片倉兼太郎、尾沢金左衛門らと三者で共同経営した開明社は岡谷の製糸業に果たした影響は大きい。また、東京では川口屋銃砲火薬店を経営し、地元では製糸業用燃料確保の為、諏訪薪炭株式会社を設立。他にも諏訪運送株式会社、諏訪索道株式会社を経営。埼玉県深谷に製糸業第三工場を設立している。
それ以外にも、中央東線の開通促進や岡谷郵便局の開局に尽力している。かたわら、明治26年から5年間、岡谷市の前身である平野村村議会議員を努めた。
まさに実業家である。
で、住宅であるが、旧林家住宅は明治30年頃に建てはじめ、明治40年に上棟した。建物は大隅流の大工・伊藤佐久二が建てた。欄間などの見事な彫刻は立川流の彫刻師・清水虎吉のものである。
大きく母屋と離れからなり、母屋は家族の居宅として、また洋館を含む離れは迎賓館として建てられている。
母屋/離れ共に銘木・良材がたくさん使われている。輸入品の模様入りガラスも多くある。離れには明治時代に流行った金唐革紙を使った部屋がオリジナルのまま残されていて、文化財指定(平成14年)の大きな要因となった。離れの洋館の中に造られている茶室は、おそらく外国の賓客(バイヤーなど)に日本文化を体験してもらうもてなしの為にあるのだろう。
建物完成の2年後に林国蔵は岡谷にあった製糸業の2工場を人手に渡し、関東に拠点を移した。残された建物は管理人を置き、別荘のように時々使った。その為、改修や生活による傷みが少なく、当時の実業家の建てた家をほぼそのまま見る事ができる。
と、要約して書いてみたが、とても全部の良さを伝えきれない。是非一度本物を目で見て頂きたいと思います。
今回は発掘girlsの皆さんから写真をもらったので、「お客様の目で見た旧林家住宅」というコンセプトでその写真の幾枚かをアップします。 K・M記