諏訪索道株式会社
2018年1月30日、索道の跡地に立ってみました。
索道というのは、「諏訪索道株式会社」が明治37年4月に稼働を始めたもので、スキー場のリフトのようにワイヤーを張って荷物を運ぶ運搬機器です。資料によると、塩尻字金子から岡谷間下間の約8kmを結んでいました。篠ノ井線が塩尻まで明治35年12月に開通したものの塩尻・岡谷間が未開通で、西条で産出する石炭を早く運ぶ必要があったのです。
「諏訪索道株式会社」を作ったのは、あの開明社の3社長・・片倉、尾沢、そして林国蔵です。岡谷側は1枚の写真と古老の聞き取り調査の結果が資料に残っており、概ねの位置が特定出来そうだった。塩尻側は「字金子」とわかるだけでそれが何処なのかがよく分からなかった。
昨年から資料漁りをしていたが、塩尻の事なら塩尻図書館だろう・・ということで2017年12月11日そこに出掛けました。図書館の方に調査目的を告げると、3人の司書の方が(たぶんそうだと思う)それぞれの資料を探し出して下さった。一人は「岡谷市史」中巻の何ページに索道の事が・・・と。二人目の方は古地図を・・・。三人目の方が小字を網羅した図面を提示して下さった。そこには「金子」も記されている。これだ!これだ!と、それのコピーを頂いた。さすがは専門家のお仕事だなあ・・。と感謝した次第です。
それを現在の地図と照合し、さっそく現地に行ってみた。旧塩尻駅からの道もあるし距離も遠くない。塩尻駅に着いた荷物を中継するのだから、そう離れてはいないはずだ。現地は住宅街で記念碑の様なものは見つからなかったが、およその位置が確定できたので家に帰り地図にプロットした。
「カシミール」という地図ソフトに始点と終点をプロットして結んでみると・・・、直線距離約8.2kmの直線が引けた。資料の「約8km」とほぼ合致する。資料に残る写真は、終点の辺りを少し高い所から見下ろしている様に見える。今回引けた直線も終点の少し前に小高い丘を通過している。間下の公民館の北西のすぐ近くだ。現地に行ってみた。写真を撮って資料の写真と比較してみたが、場所を同定できる程の大きな目標物が残っていないため、自信を持って特定できるまでに至らなったが、遠景の諏訪湖や山の見え方が大体似ている様に見える。古老の「油のようなもの(グリス?)」が出てきた・・・。という場所とも近いので、今回の調査では「ここだろう・・・。」という事にしました。
この索道は明治39年6月、塩尻・岡谷間の鉄道が開通するとその使命を終えました。 K・M記